バルザックの古い訳と新しい訳
  ――バルザック「グランド・ブルテーシュ綺(奇)譚」

甲 〈ヴァンドームの出はづれを少し行つたところに、ロワール河に沿つて、屋根の勾配のすこぶる急な、鳶色の、古びた邸が見える。大抵の小さな田舍町の町はづれには、臭くて鼻持ちのならない鞣皮工場だとか、みすぼらしい旅籠屋などが散らばつてゐるものだが、この邸は、あたりにさういふものが何一つなく、ただ一軒ぽつんと立つてゐるだけである。〉(引用箇所①)

乙 〈ヴァンドームの町をほんの少しでると、ロワール川沿いにとても高い屋根をのせた、くすんだ古い屋敷がある。まったくの一軒家で、小さな町にはたいてい見かける悪臭ただようなめし革工場や、みすぼらしい宿屋がまわりにはない。〉(①)

 小説の冒頭、二つの訳文を読み比べて、どうでしょうか? 甲は「鳶色(とびいろ)」「鞣皮(なめしがわ)」「旅籠屋(はたごや)」と振り仮名がほしいところです。また旧仮名遣いだし、引用箇所では「急」(急)「舍」(舎)「臭」(臭)だけ、大きな違いがないので気付かないかもしれませんが漢字は旧字体です。若い人には甲は読みにくいでしょう。私も若いときは旧かな・旧漢字の文庫本にはまったく往生しました。けれどそれらにも慣れてしまった今では、甲の訳文にはリズムがあるように思います。「出はづれを少し行つたところ」とか「すこぶる急な」という表現には明治時代の小説の香りがして、“すこぶる”懐かしい(?)気分さえします。周囲に何もない一軒家、という感じも鮮やかに出ていると思います。
 どちらの訳文でこの先読み進めるか思案して、私は甲を選びました。

 甲は水野亮訳(岩波文庫『海邊の悲劇』に収録)、乙は宮下志朗訳(光文社古典新訳文庫『グランド・ブルテーシュ奇譚』)です。水野氏はバルザックの専門的翻訳家として令名高らか。宮下氏は、渡辺一夫の訳がつとに知られている『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を訳し直すだけでなく、バルザックの訳も多く手がけているフランス文学者。ただし宮下訳の刊行は2009年、水野訳はなんと1934(昭和9)年です。いやいや驚くのはまだ早い、解説末尾に〈舊譯には能((あた))ふかぎり手を入れた。〉が、〈譯出當時からは何分にも十年ほどの隔たりがあるので、〉〈新しく譯し直すつもりであつたが、〉〈舊譯に縦橫の朱筆を加へるにことに終つた〉といいます。調べてみると、その旧訳の出版(春陽堂『バルザック小說集』)というのは確かに1924(大正13)年です。明治大正の匂いはむべなるかな、です。
         
 私のようなポンコツ親父には水野訳の方が似合っている、とこちらで読みかけたのですが、どうも所々意味のとりにくい箇所が出てきます。

 〈この邸一帶の、魂をぐつと引き摑むやうな、物悲しい穩かな印象を完全ならしめるために、とある壁には、ULTIMAM COGITAといふ、平凡な基督敎式の銘を彫り込んだ日時計さへ見える。〉(引用箇所②)ラテン語の部分には巻末に訳註が付いているのでいいのですが、〈魂をぐつと引き摑む〉あたりがわかりづらいです。
 これが宮下氏の訳ではこうなっています。
 〈この庭の、人の心をとらえる悲しく甘美な追想の仕上げのように、壁面の一角が日時計になっていて、「最後の時を考えるべし(ウルティマム・コギタ)」という、いかにもキリスト教的な凡庸な銘がそこに刻まれている。〉(②)こちらを参観してようやく分かりました。
 しかし、〈いかにもキリスト教的な凡庸な銘〉よりも、〈平凡な基督((キリスト))敎式の銘〉の方が、締まった表現のように思います。
 ところがその少し先の箇所、水野訳の〈大きな蜥蜴が、壁の横腹を縦横に走り廻つてゐる。〉(引用箇所③)を宮下訳で見比べて驚きました。トカゲに相当する語がどこにもなく、〈壁のあちこちには大きな亀裂が走り、〉となっています。水野訳は慣用句の意味を取りそこねた誤訳ではないか、と疑いを抱きました。
 こう思いだすと、にわかに水野訳の信頼性が薄らいできます。つづいてこういう箇所があります。〈いかなる裁きがこの邸に塩をまくことを命じたのだろうか? はたして神を冒瀆したのだろうか?〉。(引用箇所④)〈塩をまく〉には、訳注で〈忌むべき場所のしるし〉と旧約聖書に拠るものであることが説かれています。実はこれは新訳文庫のもので、岩波文庫水野訳は次のようになってます。〈裁判所から何かよくよく嚴しい判決でも下つて、この邸に盬((しお))を撒くことになつたのだらうか? 神がここで瀆((けが))されたのか?〉。(④)註がないので、世俗の裁判所を思ってしまい、頭の中に疑問符が湧きました。

 ところで宮下氏は訳者あとがきにこう書いています。東大の学生時代、初修外国語のクラスでこの作品が訳読のテキストになり、水野訳を〈古本屋で探してきて、これを逐一参照しながら、悪戦苦闘したことは忘れがたい。〉と。先生は高山鉄男、1967年の『三田文学』にル・クレジオの翻訳を発表している当時気鋭の仏文学者、非常勤の講師です。教室では水野訳の誤訳箇所などもあげつらわれたのではないでしょうか。

 筆者なんぞが誤訳らしきところをあげるのはもう止しますが、水野訳の面白い表現を一カ所だけ。語り手の医師が、公爵夫人の元小間使いに向かってこう言います。〈あんたは生き生きしてるし、おいしさうだし、戀人に事缺くことなんてありやしない!〉いきなりの大胆なことばです。宮下訳では〈そうだね、きみはとても若々しいし色気もあるから、恋人に不自由するはずがないもの。〉と、いたって穏当になりますが。

 さて、訳文のみを云々してきましたが、このバルザックの短編小説、スリラー(はやらなくなった語ですね)として面白く読めます。新訳文庫のカバーには〈猟奇的な事件〉、訳者あとがきには〈塗り込め話〉と書かれています。これだけでポウの「黒猫」を連想されるでしょう。今風にホラーと言ってもいいのですが、これはやはりスリラー。怖ろしいのは人間の心です。恐怖は最後の一行のセリフで絶頂に達します。その一行の引用はしませんが、どちらの訳で読んでいただいても結構です。前半部分が全く同じなのは、宮下氏が水野氏に感謝と敬意を表しているようにも感じられます。
               (2012年12月29日。
                 13年1月19日字句修訂)
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